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July 2010
大野和士 Kazushi Ōno 指揮者
まちと劇場と人、つなぐ音楽の力 |
世界各地のオペラシーンを席巻する、唯一の日本人指揮者と言っていい。
それでいて、8月の神奈川県立音楽堂でのレクチャーコンサートをはじめ、音楽と一般の人々とをつなぐ活動にも積極的に取り組んでいる。 まちと劇場とそこに生きる人を、音楽はどう結ぶことができるのか。 一時帰国を機に、そのヴィジョンを語ってもらった。 |
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こういうものは現役を退いてからゆっくりと、という人もいるでしょう。でも私は、自身が音楽家として充実しているうち、気力、体力があるうちにやるべきことだと思っているんです。それが、音楽家として生まれた責務だと。日本に限らず、自らお金を出して演奏会に来るなんていう人は1割にも満たないはず。経済的に余裕がない人、音楽がそんなに身近でない人、音楽は好きだけど家庭の事情で外に出ることができない人。そういう人たちのために音楽をやらずして、音楽家だなんて言ってはいけないような気がして。
それももちろんあります。あの地では、音楽が生きることそのものだった。ボランティアで子どもたちに毛布を配ったりしながら、貧しい人々に対し、音楽は一体何ができるんだろう、とよく考えた。でも、社会への問題意識は、日本にいた頃からずっと持っていました。人生で最も楽しい日々を過ごしているはずの子どもたちが、社会とコンタクトできなくなっている。ゆがんだプレッシャーに押しつぶされて。そういう子どもたちの心の扉を開けるのが音楽であり、芸術の力だという確信が、僕にはあった。それは、僕自身がそうやって、音楽に導かれてきたから。幼い頃、音楽が流れてきたら衝動的に床を転げ回っていたし、小学校の時に初めて聴いた「椿姫」に心を揺さぶられ、その時のチケットをずうっと宝物にしていた。今も僕は、国籍も年齢も関係なく、音楽で、世界中で自分をさらけ出している。そしてそれは僕だけのことじゃない、決して特別なことじゃないと思うんです。
昨年の夏には東京でも、ストラヴィンスキーの「火の鳥」を素材に絵を描いたり、踊ったりする教育プログラムを実践されましたね。子どもたちへの視線は人一倍熱いようですが。
私自身がまだ子どもだというのもありますが(笑)。一番影響を受けたのは、私が以前に音楽監督を務めていたベルギーのモネ劇場がやっていた教育プログラムですね。たとえばヴェルディの「アイーダ」を教材にするときは、まず古代エジプトの象形文字・ヒエログリフから教える。それからピラミッドについて説明して、ゲネプロ(総稽古)に来させる。いま首席指揮者を務めているリヨン歌劇場でも、地下ホールで毎週末、入場無料のコンサートをやっているんですが、黒人、アラブ人、トルコ人と、それこそ民族のるつぼのような光景になる。日常的に劇場にアクセスしない人たちがやってくるんです。そして、ね、ここが肝心なんですけれど、同じ劇場の別の扉を開けると……そこでオペラをやっているわけですよ! それこそ黒人が主人公の「ポーギーとベス」とか、トルコ人が出てくる「後宮からの誘拐」なんかをね。
劇場の外は、若者たちがヒップホップを踊るために解放しています。教育プログラムでは、彼らにオーケストラの前で踊ってもらうこともある。そんな試みの成果もあって、リヨンでは定期会員の、実に4分の1が25歳以下なんです。これは、世界のどの劇場でも考えられない数字だと思う。オペラの観客の高齢化は、どの劇場にとっても最も大きな問題ですから。今回の帰国前、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で指揮をしてきましたが、出し物も斬新で、新しい聴衆の開拓に腐心しているのをひしひしと感じました。ドイツの劇場には「オープンデー」っていうのがあって、入場無料で誰でも出入りできる。学校のコーラスが使ってたり、舞台装置を使った「レーザー光線ショー」なんてのをやってたりする。劇場って実は、とっても贅沢な空間なんです。何をやったっていい。活用の仕方次第で、どんどん血が通ってくる。そして、街に住んでいる人たちに、その存在をアピールすることになるんです。
今はオペラの世界でも、映画とか舞踊とか、いろんなジャンルの人を巻き込んで目新しいことをするのがトレンドになっているようですね。それはそれでいいかもしれないけれど、それがオペラの観客層を厚くしているとは必ずしも言いがたい部分もある。私にとって一番大切なのは、やはり、音楽をどう聴かせるかということ。私自身は音楽の世界で、存分に羽を広げてきた。でも、音楽家としてこの世に生きている以上、もうひとつの翼を持たなきゃいけないとも思う。どうすれば音楽と聴衆との出会いの扉を閉ざさず、人々が音楽に出会い、目覚めるきっかけを与えることができるのか。そういうことをいつも、心のどこかで考えています。
取材・文 吉田純子/朝日新聞記者 写真 大野純一
大野和士さんにQ&A
− 県立湘南高校のご出身で、長く横浜にお住まいでした。幼い頃の思い出は? 当時は自宅近くの山が切り崩され、どんどん街がベッドタウン化していました。それでも、ちょっと山に入ればイタチもマムシもタヌキも出て、それを追いかけて毎日走り回ってた。ピアノを弾くより、そんなことの方が多かったかな。おかげで逃げ足が速くなった。 − 横浜で好きな場所は? 音楽堂のある紅葉坂ですね。坂を上がっていくと、右手に音楽堂。一歩踏み出すごとに、文化の香りに包まれていく。でも下りは対照的。雑多な人が集う日常へと戻ってゆく。まるで、聖と俗を結ぶ道のようじゃないですか。子どものころ、この音楽堂で、巌本眞理さんとか安川加壽子さんとか、大演奏家たちの演奏に初めて触れました。初めてサインをお願いしたのが、確かヴァイオリンの江藤俊哉さんだった。 − いま拠点とされているフランスのリヨンの街との共通点は? リヨンも横浜も絹の街。どんな文化をも受け入れ、そして発信するイメージがありますね。食べ物が美味しいのも一緒。そうそう、リヨンの「ポール・ボキューズ」っていう超高級レストランが、なんと最近ハンバーガー屋を出したんです。早速行ってみたら、低カロリーで、しかもソースがとても美味しくて。このチャレンジ精神、私も見習わなきゃなあと感心しました。 |